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いつもお読みいただきありがとうございます。
青森は盛岡市にある櫻山神社。旅行で訪れたことはありましたが駆け足のスケジュールでさらっと参拝。しかしISHIGAKI MUSIC FESと会場が近い事から後日ぼっちでゆっくり参拝してしましました。
とても楽しかったので是非紹介していきたいと思います。
- 櫻山神社の由緒
- ご祭神やご利益など
- 御朱印について
- アクセス
Contents
櫻山神社の魅力を紹介!!
⛩正門⛩
立派な門です。なんだったか工事中でした。
⛩手水舎⛩
南部氏の家紋がインパクト大ですね。画像では見切れていますが、おもかげ地蔵尊なる菩薩もいます。
⛩長寿院亀之助⛩
こちらは手水舎の向かい側にいる亀さん。亀の甲羅をこすることで長寿延命のご利益にあずかることが出来ます。
⛩拝殿⛩
拝殿も立派。門に掲げる社名もですが奉納の字が大きく印象に残りますね!!
⛩右サイドの鳥居⛩
こちらは正面ではなく駐車場側の鳥居です。摂社や烏帽子岩へと続いています。
⛩烏帽子岩⛩
なんか境内の外からでも確認できる案内が。。。あれ何ぞ?
これが烏帽子岩。稲荷神社のとなりにあります。
烏帽子岩についてはしっかりと由緒書きがありました!!
災害や疫病のお守りになるという事なのでこのコロナの終息をお願いしたいですね。
雨上がりだったので全体的に写真が暗めですが実際は日当たりのより場所にあるため晴れの日はもっと気持ちの良い参拝が出来るかと思います。名前の通り、春には門の両サイドに桜が咲き乱れとても美しいですよ。
由緒
御朱印
初穂料:¥300
どんな神様?ご利益は?
- 商売繁盛
- 社業繁栄
- 合格・就職祈願
- 安産祈願
- 健康・病気平癒
- 家内安全
- 交通安全
など!!
ご祭神の功績である開拓・学問・安泰などの他、烏帽子岩のご利益にあり無病息災などにも良いといわれています。
また、鶴のシンボルが用いられており鶴は病気平癒や交通安全の加護があるとの事。亀もいますので長寿にも期待できますね。
- 南部光行公
- 南部信直公
- 南部利直公
- 南部利敬公
もともと盛岡藩の初代南部信直公を祀っていたのですが、あとから功績のある南部家の武将を併せてお祀りしたそうです。
南部氏は鎌倉時代~明治時代までおよそ700年にわたり地域を納め続けた世界でも有数の藩主です。凄いですね~。
南部光行公
八百年を越える南部家を興し、北東北の平安に努めた「永続神」
光行公は源義光を祖とする甲斐源氏の一族で甲斐国巨摩郡に生まれ、父である加賀美次郎遠光より同郡の南部郷を与えられて移り住み、氏を「南部」と称えました。
それからは、南部郷の地頭職(じとうしき)として馬産に励んでいたと思われますが、父遠光が頼朝の旗揚げに加わってからは光行公もまた頼朝に仕えるようになりました。
文治5年(1184)には源頼朝の奥州征伐に父と共に従軍したことが『吾妻鏡』に見え、その功により甲斐国南部郷に加えて新たに糠部五郡を拝領したと言われています。
南部家の伝承によれば、建久2年(1191)光行公と家臣たちが八戸浦に着き、それから現在の南部町相内の観音堂に到着。やがて三戸まで進み館を構えました。その際に、新年の準備が間に合わず正月元旦を大晦日とし、二日を元日とした(いわゆる「南部の私大」)と言われています。
光行公は牧監(馬産の管理)としての実績を見込まれて糠部の地が与えられ、南部家が北奥羽に拠点を築く端緒を開いたと言えます。櫻山神社公式HPより引用
南部信直公
戦国の世を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた「開拓神」
南部家一族の石川高信の子として天文15年(1546)岩手郡の一方井館にて誕生、後に三戸の田子城に移り田子九郎晴直と称しました。やがて南部宗家に家督をめぐる争いが起きましたが、北信愛の協力によって信直公が家督を相続することができました。その後、小田原に参陣を果たし、豊臣秀吉から南部七郡を安堵されました。ちなみに南部七郡とは糠部、鹿角、岩手、閉伊、紫波、稗貫、和賀であると考えられています。
かねてより対立が続いていた九戸政実の征伐に成功した後、信直公は浅野長政や蒲生氏郷から「不来方(現在の盛岡)に本城を置くよう」に勧められたと言われます。
慶長4年(1599)に三戸城で没しました。行年55歳、波乱に明け暮れた生涯を閉じました。信直公は、豊臣秀吉から南部七郡の安堵状「南部内七郡事大膳大夫可任覚悟事」(なんぶうちしちぐんのことだいぜんのだいぶかくごにまかすべきこと)を受け、本拠とした盛岡に築城を開始するなど盛岡藩の基礎を固め、南部家を近世大名に押し上げた南部家中興の祖であります。櫻山神社公式HPより引用
南部利直公
城を築き街を整え農産業の進行と五穀豊穣、領民安堵を計った「安泰神」
信直公の長子として天正4年(1576)三戸の田子館で誕生。
天正18年(1590)には、父信直と小田原参陣を果たし、その陣中で元服を済ませました。この時に烏帽子親となった前田利家より「利」の一字を拝領して利直と名乗りました。
利直公は九戸政実の乱平定後、信直公より盛岡城の築城を託されます。
慶長2年(1597)3月に盛岡城の鎌始め(起工式)を行い、「不来方」という地名を盛る岡の意味を込めて「盛岡」と改称しました。公自ら現場で工事の指揮を執ったとも言われており、慶長4年(1599)に本丸などが完成したようです。
利直公は関ヶ原の戦に乗じた和賀忠親の旧領回復の一揆を鎮圧することに成功すると共に、思い切った家臣団の再編成に取り組み、さらには検地を実施して家臣団はすべて城下に住み、石高に応じた知行地を与えられるようになりました。
寛永9年(1632)8月、江戸の桜田邸にて57歳の生涯を終えました。利直公は、鋭敏かつ機略をもって盛岡城の築城と城下町の建設、領内の経営に力量を発揮し、英知に優れて信望も厚かったと伝えられます。櫻山神社公式HPより引用
南部利敬公
法律と消防組を整え、学問を奨励し藩校教育を推進した「学問神」
天明2年(1782)九代藩主・南部利正公の次男として出生、3歳で家督を相続しました。利敬公が幼年の藩主であった時期は、天明の大飢饉の揺り返しで不作が続いて、藩財政は極度に窮迫しました。利敬公は入部後に倹約令を発し、家老政治を排して自ら政務を執られました。
利敬公の任期を通じて最大の課題になったのは、北地警衛と沿岸の防備でした。盛岡藩も幕府からの要請によって出兵し警備に当たりました。蝦夷地の警備が評価されて文化5年(1808)に盛岡藩は10万石から20万石へと昇格を果たし、利敬公は侍従となられました。
利敬公は、上衆小路にお稽古場(学校)を設け藩学の基礎を作りました。
また町火消しを創設し、城下の要所に火の見梯子を立て、半鐘を付けたことも特筆されます。さらに訴訟判例「文化律」を制定すると共に民事裁判所に相当する公事方評定所を設置しました。
文政3年(1820)盛岡城で没し、享年は39歳。治国は歴代藩主最長となる37年に及びました。利敬公は親裁によって藩役人の腐敗を一掃して藩財政を立て直し、盛岡藩の安定に尽力しました。明治41年には北地警衛の功績により従三位を追賜されています。櫻山神社公式HPより引用
摂社:末社(境内神社)
⛩南部稲荷神社⛩
烏帽子岩の隣にある小さな神社です。
南部氏に関係があるのでしょうか?
思い出
友人と御朱印&パワースポットを巡る旅として立ち寄りました
平泉を目指しながらパワースポットを巡る女2人旅(^O^)
詳細は後日掲載致します。
盛岡市内も神社が沢山あって歩き回ったのを覚えています。楽しかったな~!!
ISHIGAKI MUSIC FESTIVALにぼっち参戦の合間に参拝
今回の写真はその時に撮影したもので雨あがりですね。
モッシュ後の疲れた体が癒される思いでした。
いしがきフェスに参加した時の記事は下記にまとめました~。
音楽好きの方は是非仲良くしてくださいね~!!
アクセス
📪 | 岩手県盛岡市内丸1-42 |
---|---|
☎ | 019-622-2061 |
🌎 | 櫻山神社 (sakurayamajinja.jp) |
🅿 | 2か所約20台分完備 |
正面の通りは一方通行の為注意が必要です。
まとめ
- 櫻山神社は盛岡城公園内にある南部氏を祀った神社です
- 4柱の神それぞれゆかりのご利益として開拓や学問などに効果があるといわれています
- 南部氏の家紋を象った御朱印が魅力的
- その他築城時に突出した烏帽子岩など見どころが沢山
- 盛岡市の中心部にあるので周辺も飲食店や観光スポットが豊富ですが神社前は一方通行なので注意が必要です
いかがでしたか。今回は盛岡市の櫻山神社について書かせて頂きました。
実は初めて櫻山神社を見たのは、昔盛岡が故郷の知人に白龍というお店にじゃじゃ麺を食べに連れてきてもらったのが初なんですね。その時は参拝こそしなかったもののあの立派な正門は忘れられません。
数年後、友人と旅行に来て『あー来た事あるわ』とすぐに思い出せるほどに外観も印象的な神社です。
御朱印もおしゃんで綺麗ですよね。
繁華街にも程近いので盛岡を訪れた際は是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか。